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法華経に聞くシリーズ

法華経に聞く(23)  日蓮宗修養道場化主   石 川 日 

 先日、わたくしが日ごろ敬愛しているN師の短歌が、ある新聞にえらばれて掲載されていました。
  〽杖を曳き遅るる我に  「すぐそこ」と先を歩みし 友ら待ちをり
 紙上での評には「国内外で多くの賞を受賞し、高い評価を得ている西川氏。祈りと慈愛が調和した独自の奥深い短歌世界では、現代が必要としている心の平和と清らかさが宿っている」と述べられていました。
 N師とは、ご存じの方もあられるかと思いますが、市川市の亀井院の西川日恵上人のことです。口ずさめば口ずさむほど、現代の私達が忘れている「共に生きる」ことの大切さが、師の受けた心遣いと共に伝わってきます。
 昨春、わが国では思いも寄らぬ災害に見舞われ、「なぜ、なんで……」と大きな疑問に苛まれました。それと同時に、「何とかしなくては……」という多くの人々の善意の力が集まり、みんなと一緒に生きているという、実感を体験した年でもありました。
 帰するところ、人類すべての人に問い掛けられた心への試練ではなかったのではないでしょうか。言うならば、一人々々の心に気付かせる為めの佛の教えだったようにも思えてなりません。
 法華経では、私達が教えに気付くのには、二つの時期があるといわれています。一つは親が存命の時です。親の仕草・生活・態度から、気付かされる教えがあります。
 二つ目は、親がいなくなった時です。親が亡くなると、すべて自分が責任をとらなくてはなりません。今までとは異なり、すべてのことに、注意と気配りが必要になります。よって、親が存命の時以上に、周りの教えに敏感になります。
 ここでいう、親とはお釈迦様のことで、お釈迦様がおられる時と、そうでない時では、私達の心持ちが違い、教えの気付き方も異なるということなのです。
 ところが、親がいつまでも生きていることに慣れてしまうと、私達は、気が緩み、無気力なわがままが出てきます。また親のいないことに慣れてしまうと、こんどは親のニラミが届かない分、心がひねくれてしまい、すべてやりたい放題の欲が生まれます。
 このように、親がいる時・いなくなった時、ものがある時・なくなった時、私達が教えに気付く大事な時なのだ、と教えているのが法華経の法師品第十の教えなのです。
お釈迦様を罵る(佛を毀罵)、教えを求める人を罵倒する(讀誦する者を毀訾)、その様相は異常ですが、その中に実は気付くべき教えがあると伝えているのです。
 災害に直接遭われた方々と共に生きる努力と、この困難から学ぶ私達を今年は、共に探して行こうではありませんか。

法華経に聞く(24)  石 川 日 

 近頃、「受け継ぐ」ということが死語のようになってきているように思えてならないのですが。家や土地はもとより、店や工場、お墓にいたるまで、「受け継ぐ」ということが困難になってきているようです。
 こうした時代の趨勢は、寺院教会結社の今後と、布教・教化の在り方まで大きな影響を与えるようになっています。
 都市部の寺院に聞きますと、「先祖代々」という供養が無くなってきているという声が聞かれます。今は一部の声かもしれませんが、危機感を感じている教師も少なからずでてきているようです。
 豊かの時代が、「受け継ぐ」ことや、「護っていく」ことを失いつつあることは、致し方ないことなのか、それとも努力して残すことなのか。それを決めるのは、今生きる私達でしょうが、こと宗教は、「受け継ぐ」ことや「護っていく」ことを強く教えてきました。
 法華経では、教えを示す時期には、佛がいる時といない時があるといいます。つまり、親がいる時・いなくなった時、ものがある時・なくなった時、私達が教えに気付く大事な時なのだ、と教えるのが法華経の法師品第十の教えでした。
 私達は、自身の身の回りが変わっていくことをあまり好みません。自分以外の周りが便利に変わっていくことは快く受け容れられるのですが、自分自身や直接関係する身の回りの変化には消極的なものです。面倒なのでしょうか。
 しかし、すべては常に変わっています。特に大きく変わる時、そこには、大事な教えがあるのだ、と訴えるのが法華経という教えでした。
 変わる時、ただそれを見過ごすことが多い中、教えを見つける時期はここだ、というのです。それに気付く時、私達は、
 「大慈悲を室とし、柔和忍辱 を衣とし、諸法空を座とす」
という、人間としての心の広さ(室)と心の暖かさ(衣)と心の強さ(座)を得るでしょう、と経典は綴るのです。
 こう見てきますと、法華経法師品の衣座室の三軌と呼ばれてきた教えは、私達の心の動きを顕していたことにもなりましょう。
 お祖師様が常に「如来と共にある」信念を語られておられるのも、お祖師様の心の姿であり、私達の心の姿を示されていたということになりましょう。
 新しい年に当たり、私達も生まれ変わる一年にしようではありませんか。