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おまえらそれでも坊主か!

 
 お経しか誦げられない。供養しかできない。祈念しかできない。それも頼まれて、やっと重い腰を揚げる。それしかできないのなら、それがどれだけ重要なものかをわかるように説明をしてくれるのならまだしも、重要なのか必要ないものなのかも、何も教えてくれない。
 もう、やる意欲がない。しようがなしにやっている。しようがない人間からはしようがない人間しか生まれない。
 お経を誦げるのもオックウ。供養も面倒。祈念も上の空。何かヒントになることがあるかと、学びの門戸を尋ねると、自分の絵を自分で褒めているような話ばかり。どこもかしこも、やる気がない。

 
 
イッチョ、一から始めようか。始めるなら、途中であきらめるなよ。そこらのやる気のないヤツラと同じになるなよ。
 今大事なことは、成果・結果を求めるより、やる気の持続だ。生きるということは、持続だからだ。成果より、ひたすら努力を重ねていこう。見えないが、その人自身の心に成果が貯えられるはずだ。さあ、始めよう。自分の発見を。それを追い求めて、持続していこう。辛いが、必ず自分に成果は生まれる。


 時代の勢にするわけではないが、制度上、僧侶も給与取得者のサラリーマンであり、出家の身とはいっても生活は一般社会の人達と変わらないことになって久しい。老僧達の年代はこれを、建前は制度に則るが、本音は旧来の僧侶の体質を維持しながら、何とか融合させていた。
 ところが、最近はそれがだんだんとできなくなってきた。考えてみれば、終戦後七十年近くになるのだから、無理もない。制度が建前であると共に、本音にもなってきたのだ。僧侶はサラリーマンだから、サラリーマンの範囲の仕事しかしない。言われたことだけすればいい。出家といっても、サラリーマンだから休日もあり、定休日も必要と考えるようになっている。
 供養することすべてが、就労の一つとなる。よって就労だから、公正な対価でなくてはならない。ところが、この金銭部分になると、旧来の習慣が幅を利かす。こうした時の流れの中に、今の僧侶がある。このままでいくと、僧侶は確実にサラリーマンとなる。いや、なっているのかもしれない。これでよいのだろうか。
 僧侶は労働者ではない。収益追求者でもない。原則休日も休暇もない。それが出家である。ここに一般社会人にはない、人間の心持ちを教える立場が生まれる。修養道場はそれを教えている。



 全国の寺院教会結社の住職教師が言うことに、ここ数年圧倒的に多い意見は、「何をしていいのかわからない」という声だ。
 都市部の寺院に聞いてみると、「やることが見当たらない」という。地方の山間部の寺院に聞くと、「若い人はいなくなり、過疎化が年々進み、檀信徒の自然消滅の状況でやる術がない。よってやることがわからない」という。
 どこでも、寺院教会結社の実状はやることがわからないということのようだ。では今までは何をやっていたのか。諸堂を修復したり、寺観を整備したり、寺院の復興が中心であった。復興にメドが付くや、やることが減少していっている。
 寺院の体質には、誰かが支えてくれるという甘えがある。この甘えが豊かさの時代に入って、さらに悪い方向へと向けているようだ。
 自分の足下を自分で固める術を考えない。人が引いたレールの上を歩き続けることはできても、自分でレールを引く勇気がない。


 この辺で、すべてのものを捨てて、出発点に戻ることだ。
 出発点?
 悩んでいる人々を救い助けることだ。そのためのできることを考えよう。檀信徒を悩ませ、救いの手を差し伸べられないお寺を変えていくことだ。まず救いありき、のお寺にしていこう。お寺は必ず変わる!