トップへ 九十七歳の高齢の母親が亡くなった。その子供も七十歳を過ぎている。高齢者が送る葬儀である。 孫・曾孫達はいるが、どうしてよいかわからない。悲しみをどう表現したらよいのかがわからないのだ。 葬儀屋に依頼して、それなりの弔いをしてみた。それとて、どこでどう悲しんでよいのかわからない。お寺にお経を誦げてもらった。お通夜と告別のお経である。何を考えたらよいのか、何を思い浮かべたらよいのか。その時間だけが過ぎていく。 自分がどう悲しいのか、わからないから、弔問・会葬をしてくれる人の気持ちもわからず、ただ荼毘に付してお墓に納めることしか、浮かばない。よって、家族だけの葬儀で終わった。遺骨を抱えて、帰途についた。親の死から得るものがない。 数日して、近所の人達が、「亡くなられた……」と聞きつけて訪ねてきた。時折、一人、二人と。いつ来るのかわからない人を待つ日々が続いた。何もできない。 迷惑な弔問客から、やたらと生前の話がでた。みんな、亡き人と交流ができたことに感謝して、参ってくれた。 その時、急に悲しみがこみ上げてきた。絆・触れあいから生まれる感謝に出会った。これが死からの教えだと。 遺骨を抱いて、親に謝った。悲しみを持つことの大切さに触れた。豊かさが悲しみの持ち方すら、忘れさせてしまった。これでよいのか。 |